往復書簡 #3 あこ〈京都→モントリオール〉

錆びた螺旋階段をあがっているのにその光量に呼ばれて空を見ました。今日の月はめっちゃデカくてめっちゃ明るい。ずうずうしいくらい近い。扉を閉める。広くはない暗がりのなかを不釣り合いに大きな丸が迫ってくる。光ってる。

二日前12月5日金曜日の夜、京都東山では遮る雲もなく東の空にとても大きな満月が見えました。昇る時間や方角は違っても月の満ち欠けは地球上どこでも同じように起こるって思い出して、そのことをはしりに手紙の返事を書こうとしたわけです。半日前から満月の予告を送るなんてなんかロマンチックやん。とか思って。書き出した冒頭の文章なんかポエムみたいになっちゃって、わたしは手紙が書きたいんだよ手紙ってそういうんじゃんくてさ…と文体迷子になり日をまたいでしまい結局送れなかった。
我々が代わりばんこにフィリピンにいた時や、ようちゃんがカナダへ旅立ってから、生活というか思考のなかに時差という要素が明らかに加わったと思う。
もし我々の間に距離とそれ分の時差が発生しなかったら、わたしたちはいつか同じ電車を逃すことになるだろう。そしてその劇の冒頭について感想を語り合うことは永遠に叶わない夢となるのである。しかし今私が前髪を乱し肩で息をしながらホームに立ち尽くす時、ようちゃんは走り出す。迷いなきルート取りで信号と交差点の位置と数を見通しノンストップで突破する…とかいう時差トリックドラマを妄想したりする。時差と距離のことを考えていると、前方向に開けていた未来が後ろ側にも広がっていくような感じがする。(私の頭にキョウトとモントリオールという位置があって、私が東側にいるからそう思うのかも)で、結局宇宙とか物理とか理科とかよくわかんなくなってフィクションに、ポエムに逃げたくなる。
論理的に思考すること、論理的な文章を書くことに憧れがある。(そのスキルを身につける努力ができる胆力への羨望でもある)しかし論理で物事を一刀両断することや人を説得することにはあまり価値を感じない(私のやるべきことではないというかんじ)。ただ実態をできるだけ肌理細やかにみてかんじてきいて確かめる。散らばった点をわたしの身体で集める。そこからなにを読むことができるのか何を問うことができるのか言葉にできると信じたい。
修論の研究というか調査というかそもそも普通の授業とか、学生生活をあんまりうまくやれていない。進捗状況の報告とか、なんか発表のレジュメとかレポートとか、毎回はりぼてばっか作ってなにやってんだと情けなくなる。誰を何のためにだましているんだろう。なにも積みあげれてなくて縦にも横にも前にも後にも天にも地にも進まない。なんでこんなにやりたいことも考えたいことも知りたいこともたくさんあるのになんでこんなに動かないんだろう。まだ諦めてはないんだけど。ライブ感が必要なのかもしれない。

この秋冬、一年越しに月ノ座のワークショップに参加している。今回は今年から新しくスタートした「文字と書」というクラス。全3回で今日はその2回目でした。「真似て書く―目と文字・手と文字―」というテーマで、紀貫之がひらがなで書いた歌(自筆ということになっている)の写しをみながらその筆の運びをまねして書いたり、草野心平の「ゆき」をいろいろな紙や筆記具を使って自由に書いたりした。
感情を書くことについて、日本語を書くことについて、「言葉」ではなくて「文字」と向き合うことがとても新鮮でおもしろい。ひらがなをつかって書くことがとてもダンス的だと思えたりした。またいろいろはなしたいです。

からだの調子はどうですか?調子のよいときも不具合があるときも我々の中の細胞や菌たちはただせっせと働いているのですよね。わたしは仕事を辞めた年から寝不足が続いたり生活が不規則になると顔以外の全身に発疹が出るようになり(なぜかダンスのリハーサルや本番期間はどんなにはちゃめちゃなスケジュールでも平気)、案の定衣装の仕事を追いこんでいるときから雲行き怪しく終演後から悪化の一途をたどり今もうかゆくて眠れない。朝晩の気温がぐんと下がり湯たんぽを解禁、冬の幸せと喜びたいが体が温まるとよけいかゆくなっちゃって寝られない。明日皮膚科に行きます。そして生活を整えます。

2025.12.8 AM3:59(日本時間)
自室 bgm:「雑感」柴田聡子