ノート

  • 家 #1

    2年間一度もあけなかったクッキーの空き缶を押入れの奥から取り出して、中を覗いてみるのが引っ越すということ。2年間一度も思い出さなかったクッキーの空き缶の中身を、次に思い出すのはまた次の引越しのとき。その中身を燃やすまでは生きて家に帰ってこなきゃと、細胞のどこかで考えている。

  • 家 #2

    「納豆めかぶ卵焼き」をひたすら焼き続けている。どれだけ食にこだわれない日でも、これさえ食べておけば気分はすこぶるヘルシーである。
    納豆を混ぜ、めかぶと合わせ、卵の入ったボウルに突っ込んで少しのめんつゆを足す。かきまぜて、粘りと重量の増した卵に遠心力をかける。その円の先にあらわれた小さなブラックホールに吸い込まれてみる。部屋の内側が外側になる。押入れに深海が収まる。体の一本道を世界が通り抜ける。血管にダイブする。毛穴に種を蒔く。お腹と背中がくっつく。喉から出た手がフライパンを握る。少し強すぎるくらいの焦げ目がついたら、白ご飯に乗せてかきこむ。

  • 家 #3

    共有するもの:
    玄関、リビング、キッチン、調理器具、風呂場、洗面所、トイレ、廊下、棚、靴箱、掃除用具、ゴミ袋、洗濯機、冷蔵庫、炊飯器、電子レンジ、壁、床、共有部分の照明、ドア、本棚ひとつ、DVDプレーヤー、プロジェクター、聞いてほしい出来事

    共有しないもの:
    個室の内部、服、靴、箸、個人の持ち物、仕事の時間、趣味の時間、帰宅時間、自分の分の食事

    共有されるもの:
    音、匂い、室温、生活リズム、ゴミ、ごきげん

  • 家 #4

    昔から、布団に入ったあとに誰かが仕事をしている音を聞くのが好きだった。皿を洗う音や、ワープロを叩く音を聞きながらウトウトする。自分が眠っているあいだも守られているような気がしていた。
    いつからか、家のなかで私がいちばん眠りにつくのが遅い人間になった。実家でも、友人の家でも、自分の家でも、戸締まりと火の元を確認してから布団に入る。耳を澄ます。自分以外のすべてが眠りにおちたことに安堵して眠る。

  • 家 #5

    ここに家はないのだった。あるいは、そこが家である根拠を誰も持っていないのだった。家と呼ばれるものの正体は何か。家の条件とは。
    家は、はっきりと意思をもって住まわなければ、家にならない。「ここを我が家とする」という意志を示し続けなければならない。維持する努力そのものを家と呼んでみる。

  • 家 #6

    ここに住んでいるあなたは何者か。隣に住む私は何者か。この場所と空間を占める正当性は何によるものか。なぜここを追われないのか。または追われるのか。明日もここで目を覚ませるだろうか。では、生まれたときから持っているこのひとり分の体は一体何か。

  • 家 #7

    家は器というより、本体である。
    と仮定する。

  • あるく

    会社のデスクの一番下の引き出しから持ち出した、使いさしだが900mlほぼ満杯のポンプ型マウスウォッシュ1体を抱えて帰路につく。下から掬い取るように片手に収めてぶらりと揺らしたり、小脇に挟んだり、胸の前に捧げ持つなど工夫をこらす。優しい重みを腹に響かせる。握る力をうまく分散させなければ容器が圧迫され液体がこぼれ出す。たまに意図的に、あるいは無意識的にこぼすことで外界とポンプ内との環境格差を是正する必要がある。ポンプの首と人の視線とが偶発的にかち合う。その火花を足の指先に点火させ歩く。

    生活の無題 #1

  • 影を探す

    東に向かって一目散に駆ける。あと6分、行けるところまで行く。信号では明暗が分かれる。進めるはずの数分を足止めされたり、点滅に追い立てられて思わぬところまで進んだりする。どちらでもよい、とにかく行けるところまで行く。なるべく視線を落とさぬよう、時計を確認する。30秒前、まだ走る、20秒前、まだ走る、10秒前、歩く、5秒前、止まる、振り返る、西へ。0秒、直立、目を閉じる。1分後、東へ歩き出す。走らない。風を感じる。

    生活の無題 #2

  • スライド

    背伸びして頭蓋骨をゆらゆらすると黄緑色の倉庫や黄色い看板の質屋や土や木やトラックや白い筒状の施設の向こうにセルリアン・ブルーの波が見える

    生活の無題 #8